最初の成果 2003年2月12日

ここに至るまでの経緯をご存じで無い方、お手数ですがまずはそちらを斜め読みしてください

あれから、おおよそ2週間が過ぎた。
その間、視点を変えていろいろと、考え直してみた。

久しく離れていた、パチンコ屋にも通ってみた。結果は(御期待にそえなくて申し訳ないが)株での損が吹き飛ぶくらいは浮いた。
ただこれ、運が99に実力が1ってくらいで、恥ずかしながらとても「稼いだ」なんて言えない。
まぁ、それなりの答えは見つけてきた。これからは気が向いたとき(あるいはちょっと心中穏やかで無いとき)、フラッとお金を融かすような場所になるのだろう。


自分が立てた、株取引についての「5つの問い」を、まずは以下に示す。
  1. レミングスの鼠は救えるか?
  2. 株取引は「ギャンブル」か?
  3. 市場が望んでいるのは「投資」ではなく「投機」か?
  4. 相場師は株価の上昇を望んでいるか?
  5. 僕にとって、株取引は必要か?
そもそも、最後の問いに対する答えが「NO」であるとするならば、僕はこれを書いていないんじゃないかというツッコミはさておき。
順を追って書く。

レミングスの鼠というのは、言うまでもなく集団自殺をすると考えられているレミングたちのこと。
リンク先を読んでもらえれば、レミングたちも自分にとって合理的な行動をとろうとしている可能性が高いと気づくだろう。
仕手につられる主婦のオバチャンたちも、自分にとって良い結果になると考えての行動である。融かしても融かしても、その行動が「根本的に間違っている」ことに気づかない限り、今後も同じ行動をとるに違いない。

自分は株取引をはじめた当初から「株取引はプラスサムゲームである」という立場を取ってきた。それが揺らいだのは前回書いたとおり。
が、プラスサムゲームかどうかは問題の本質じゃなかったのだ。たとえプラスサムゲームであったとしても、余剰分よりも多くのリターンを求める仕掛け人が存在する限り、奪われる人間もまた存在する。

オバチャンたちが最後、何をきっかけに市場から退場していくのかは分からない。たぶん、それなりの資産を融かし、人生の大半を無駄に費やして、ようやく出ていくのだろう。
そのときに救いの手を差し伸べるのは、旦那だろうか、息子や娘だろうか。僕じゃないことだけは少なくとも確かだ。

問1『レミングスの鼠は救えるか?』の答えは「NO」である。もし株取引を続けるにしても、「レミングたちを自分の味方につける」という愚かな考えは捨てるべきだ。


ギャンブルとは、そもそも何か。
競馬・競艇・パチンコ・麻雀・カジノ。いずれのギャンブルにも、共通していることがひとつだけある。それは、「最終結果を偶発的事象に依存している」という点である。たとえどんなムチャクチャな基準で馬券を買ったとしても、当たる可能性は大いにある。また、どんなに強い馬に賭けたとしても、ノーリーズン武豊の落馬を引き合いに出すまでもなく、負けるときは負ける。
それと比べると、株取引は非情だ。ほぼ確実に儲けることができる取引がある反面、確実に損をする取引も存在する。そこにはギャンブルのような、偶発的事象による救済措置は存在せず、そういう意味ではギャンブルですらない。

企業経営に関しても同じことが言える。弁当屋の売上が季節変動に左右され、輸出メーカーが為替変動に泣き笑いするなど、一時的な偶発的事象で笑ったり泣いたりすることは多い。一時的に売上を減らすこともあるだろう。
だが、何期も連続で赤字を積み重ねるような企業が、「これは偶発的な事象に泣かされたからであって、経営者の怠慢では無い」と言えるだろうか。そんなバカな。

従って、問2『株取引は「ギャンブル」か?』の答えも「NO」である。もとより、ギャンブルであったなら市場参加者は刑法185条に引っかかるし、東証は刑法186条に引っかかってしまう。


「投資」と「投機」の違いについては、以前の日記にも書いたし、その後修行記でも紹介した。ここであらためてまとめると、「価値が変化するものに投ずる」=「投資」、「価値が変化しないものに投ずる」=「投機」である。
日経CNBCは、「投資」情報であるような顔をしているが、ほとんどは出来高を伴った銘柄しか取り上げない。「出来高が伴っている」ことの意味は、最近になってようやく理解した。これは「ファンダメンタルズは十分株価に反映されており、あとはテクニカルでしか動いていない」ということである。つまり取り扱っているのは「投機」情報である。
株式新聞に至っては、仕手筋の材料にされる始末。以前の日記で「株式新聞を読みます」と書いた覚えがあるが、今は全く読まなくなった。なぜかというと、株式新聞の記事で急騰するのは仕手筋が仕掛けたからにすぎないのだ。戻ってきたところを買っても上げ要因には乏しく、手を出すほどの価値は無い。仕手も「投機」。
言うまでもなく、テクニカルは「投機」に対してのみしか通用しない。北浜やフィスコもネタにしてるのは「投機」である(しかも曲げっぷりが激しく、参考にすらならない)。
Jさんのコバンザメ投資法ですら、ファンダメンタルズに関係ないところで稼ぐという意味では「投機」である。

「投機」に関する情報は溢れている。対して投資に関する情報は、あまりに少ない。グレアムやバフェットといった長期投資が取り上げられるくらい。
これは「上場株式」そのものの性質とも密接に結びついていると思う。つまり、売買があまりにお手軽すぎるのだ。ポチポチとマウスクリックするだけで売買出来てしまうなら、深く考えずとも、いち早く安い値段で手に入れてしまった者の勝ちである。もし実際にファンダメンタルズが変化し、株式の価値が上がったとしても、その頃にはとっくに株価に織り込まれていることも多い(それすらも投機のネタとして、さらなる上値を狙うことすらある)

もともと、人々が株を欲しがったのは、それを持っているだけで会社の儲けの分け前(配当)がもらえたからだ。キャピタルゲインが得られるのは、株価が上がるから。株価が上がるのは、配当が上がるから。配当が上がるのは、会社の収益が上がるから。
ところが誰もが高値で株を欲しがるうち、いつの間にか主従が逆転してしまった。会社が成長しようとしまいと、株価さえ上がればよくなってしまった。会社も儲けて株主に配当を分け与えるより、株価対策をまず心配するようになってしまった。そして、自社株買いで利益をわざわざ市場に融かしちまう企業すら出てきたのだ。
馬鹿げているが、上場株式の大半が投資不適格な水準まで値上がりしている以上どうしようもない。

従って、問3『市場が望んでいるのは「投資」ではなく「投機」か?』の答えは「YES」である。もとより、人の命は短いのだ。自分の欲望を満たすために、10年も20年も待っていられるはずがない。


相場師という単語を持ち出したのは、ひとつ前の答えを受けてのものである。市場が求めているのが「投機」であるならば、市場参加者を「投資家」と呼ぶなんておこがましい。相場師で十分だ。
それはさておき、相場師にとって最大の敵とは何であろうか。機関投資家?年金資金?外資?国家?
違う違う!その答えは「相場が動かないこと」である。

相場師の利益の源は、価値の増大ではなく、あくまで鞘取りにしかすぎない。なぜかというと、自己消費を目的としていないからである。
為替ヘッジは実需に基づく人がいる。実際に外貨でモノを売ったり買ったりする人たち。こういう人たちにとっては、為替で差益/差損が出るくらいなら、そのボラティリティ分を他人に委ねたいという需要に基づくものである。
商品先物も同様。これはもっと直接的で、「確実にこの値段で売れる」「確実にこの値段で買える」という、販売者/購入者双方にとって夢のような話である。その間に立って需給リスクを引き受けるのは、やっぱり相場師。
株式はもっとひどい。自己消費を目的とするのは、議決権を行使したい筆頭株主のみ。それ以外の人間にとっては、値段の変わるポーカーチップと大差が無い。

では、鞘取りするには、価格は上昇しなければならないか?そうではない。
株式の信用取引に「買い建て」と「売り建て」が存在するように、証券会社の認可を受けた相場師は、相場の上昇と下降のどちらに張ってもよい。ただし、どちらに張るにしても相当の手数料がかかる。もし相場が動かなければ手数料は丸損、胴元である証券会社の一人勝ちだ。

従って、問4『相場師は株価の上昇を望んでいるか?』の答えは「NO」だ。そんなもの望んじゃいない、上だって下だって、動きゃいいのだ。そして株取引がギャンブルでは無い以上、それを動かすのも相場師自身にほかならない。


さて、ここまで読まれた方は「ハテ?」と思ったのではないだろうか。これでは、問5『僕にとって、株取引は必要か?』に対する答えを「YES」とするには、どうにも無理がある。
事故死するレミングたちの屍を踏み越え、ギャンブルですらない「投機」の海を渡ってまで、株券をポーカーチップぐらいにしか見ていない相場師の間に割って入り、株取引を行うだって?
そんなの普通に考えれば、株取引に否定的な友人の言葉を借りるまでもなく「NO」と答えるべきだろう。
それに僕は、マイナスサムゲームの空しさを、よく知っている筈ではないか。かつてパチンコ屋でそうだったように、プレイヤーが減ってゆき、よく見た顔も次第に見なくなり、かろうじて見る顔も徐々に目の輝きが失われてゆくさまを。

だが、自分は気づいてしまった。何年間もパチンコ屋に足繁く通った頃と同じく、この中毒性の強いゲームに、どっぷりと浸かってしまった自分自身に。
多分、かつて競馬場でそうであり、パチンコ屋でそうであったように、しばらくはそこそこ勝ち続けるだろう。だが、ほどなくして飽きるときが来る。興味の切れ目が、ツキの切れ目。チャンスを見落とし、リスクを見落とし、新しいプレーヤーに押され、やがては負け組に転じてゆく。
そして、その時が来たとしても、退場せずに、未練がましく小銭を張っているに違いない。
博打以下のこのゲームが、愚か者の僕には必要なのだ、たぶん。


以上、すべての答えは出た。
日記はこのままオシマイにします。まぁ、レミングでなければ私の文章など読まずともいずれ気づくでしょう。
また、修行編で試みたように、自分の言葉よりも他人の言葉(ホームページ)を借りたほうが気楽なので、今後はのんびりと修行編を続けていく予定。

えっ、なんでホームページ続けるのかって?
もちろん自分のため、つまり、日本全国のどこからでも、自分の刹那的な趣味のリソースが手にはいるようにしておくためですよ。
誰が読者のためなもんか。

でも、ここを読んだあなたは、一度は考えてみて欲しい。
あなたは、ひょっとしたらレミングじゃありませんか?


修行編に戻ります